「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」はそれぞれ織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の性格を見事に言い表している句だよな、というところまでは知っていたつもりです。
が、これが、肥前国平戸藩の第9代藩主の松浦静山の「甲子夜話(かっしやわ)」から来ていることは知りませんでした。1821年から書き始められたというから、思っていたより古い話なんですね。歴史の先生とか塾講師の方が作った逸話かな、と思っていました。
ちなみにこの甲子夜話は「いかさま」についても言及されているとか。イカの墨で字を書くと1年もすると消えてしまうから、ということらしいです。勉強になります。
また、野球の野村監督の「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」も甲子夜話の引用だそうです。野村監督すごいところから名言を拾ってきますね。凄いです。
さて、ほととぎすに戻りますが、最終的には天下を取った徳川家康ですが、「待っているだけ」というのは、如何にも運試しというか消極的な感じがします。実際はただ待っていた訳ではなく、待っているだけの姿勢を装いながら周到な準備を行っていたというのが正しいように思います。
「待つ」には、本当に様々な場面・状態・心理があります。
1秒にも満たない時間なのに、なんか「待ったな」と思うこと、それなりの頻度で発生します。人が話をしていて少しだけ「間」をあけたとき時とか。
10分待っても全く平気なこともあるし、3分でもすごくイライラすることもあるし。状況やその時の心境など様々なことに左右されます。まさに千差万別。イライラして良いことなんて無いって分かっているのに、訳も無くイライラする自分に嫌気がさすこともあります。
「エレベーターの待ち時間が長い」という苦情が続いたビルがその対策として鏡をおいたら苦情が減ったという話を聞いたことがあります。大学も授業で習った記憶が。これは待たせる側が上手い用意した結果だと思います。
スマホ時代となり、遅れる時には「ごめん、30分遅れる」と即座に連絡できるようになったのは、人類の歴史からすると本当につい最近のこと。当てもなく「待つ」ことが強いられた時代に生きていたらどうなっていたんだろう?
幸せな人、幸せに近づいている人はほぼ間違いなく、「待つ」ことが上手な人だと思うんですね。そういう意味では私はまだまだ「待つ」ことに関して工夫の余地があるな、と思う次第。
逆もまた真なり。人を待たせることは極力避けたいですね。勿論、全てを予定通りにこなせる訳では無いので、こまめに連絡するとか、「この人が遅れるんだからそりゃよほどのことがあったんでしょ」という実績を築いておくとか。