さて、私が大学に入ったのは1988年、卒業したの1992年。ちょうど昭和が終わり、平成になったころでした。大学1年生の時には昭和天皇の体調が思わしくなく、学園祭を中止にする大学もあったな、「下血」などという不謹慎な言葉も飛び交っていたな、と思い出します。

その頃私が考えていたことをなるべく正確に思い出して、正しかったのかな?と振り返ってみます。

田舎の進学校に通っていた私は、兎に角「良い大学」(=入るのが難しく、人から良いねと言われ、就職にも有利な大学)に入ることに専念し、受験勉強に取り組んでいたと思います。勉強したいことなどぼんやり(正直に言えば無くて)しており、法学部を受けてみたり、経済学部を受けてみたり、商学部を受けてみたり、とまあ、学部選びは受験科目の配点で決めていた、というくらい「いい加減」でした。文系と理系といった区切りでも数学が苦手だから文系というくらいです。

有難いことに「良い大学」に入ることが出来ました。素晴らしいことは、「兎に角周りに優れた人間が多い」ことだったと思います。今もそう思います。これは今も「良い大学に行くことの素晴らしさは良い友人に恵まれる機会が増えること」だと思います。

授業やゼミは本当に申し訳ないくらい手を抜いていました。そんなのだめだよね、と思う反面、じゃあ、一生懸命授業に出て勉強してたらもっと良かったのかな?という問いにも「そうでもないかも」という感じです。

周りでは弁護士や公認会計士にトライする人も少なからず居て、今もそうした「士業」に就いている方もいらっしゃいます。私は全くトライする気持ち無かったですね。会計士になっておけば良かったという感想はありません。

もっと本を読んだり、友達とそうしたことを語り合っておくべきだったな、というのは本当にその通りです。ゼミも素晴らしい教授だったのですからもっと勉強すべきでした。その頃留学なんて流行っていませんでしたが、1年くらいは留学やら海外放浪旅とかしても良かったかな、というのは強く思います。

当時は就職の環境も素晴らしかったので、特に苦労なく「良い会社」と言われる会社に就職することが出来ました。

この文章を今の若い人、例えば姪っ子に読ませたとして、何の意味があるんだろう、と思います。明確に言えることは、大学では「生涯の友」を見つけるチャンスだよ、ということくらいでしょうか。どういう生活をしようが(体育会に打ち込もうが、バイトに打ち込もうが)時間はそれでもある筈だから本を読んだり、友人と意見を交換することにもっと時間を割いても良いかもね、というくらいでしょうか。

良い会社というものがすでによく分かりません。経営基盤の安定した大企業は給料が高いことも多いので相対的に有利かもな、と思いますが、最早終身雇用という考え方も揺らいできていますから、そこまで重要じゃないかも、です。

日本という国の勢いが我々が就職した時期に比べれば明らかに弱っているので、日本の企業以外に目を向けることもありかもな、と思います。英語の重要度は言うまでも無いので、聞いたり、話したりを中心に勉強した方がいいよ、とはアドバイスできますね。今はYoutubeやらで気軽に英語勉強できるからしたほうが良いに決まっています。

「良い大学」からの「良い会社」というのは、私が学生だった頃には間違いなく機能していました。それ以外のことを考える必要が無いじゃんというくらい太い線路が見えてました。今はなかなかそうでも無いので難しいですね。

まったくまとまりございませんが。